抜け、と言われて抜ける力は無い… 腹式呼吸・アンブシュア・指クシャ

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抜けないってばよ。
知ってか知らずか、無意識に入ってしまう力。

それで自分も誰も困らないなら、
余計に疲れるのを知らないだけ、
他のなにかに滞りが起きてるのを知らないだけ、
…で済むこと。

言われて無駄な力と思えば抜きたくもなる、けど…

脱力って簡単なこと?
あるいはソレだけで問題が簡単に解決するの?

これ実は「力抜けよ」ってことだけでは無い可能性の高い写真です。詳しくは後ほど…
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抜きたいのに抜けないわけ

ふと気付いて「抜きたい」と思ったとする、
その途端に、なかなか抜き「続けられない」のが判って悩みになるもの、
誰かから「抜け」と言われてもそれは同じ。

入れたいと思って入れてるなら抜ける、
でも、抜くといいのにな~って力に限ってたいてい、
入れたいと思ってないのに入ってしまうもの。

ある作業の作用点に近い、
もしくは直接的に連続性を感じられる範囲、
その辺りなら「入れる・入れない」を意識下で操作しやすいから、
抜けと言われれば抜ける。

その領域で不要な力を入れてしまってるならば、
それは本人の無知あるいは無頓着が原因。
知れば、頓着すれば抜ける。

知らずに入る力は、なかなか抜けるものではない。

作用点に直接的に連続する領域の筋出力が充分でないと、
「他のどこか」に力を入れて補おうとする。
それは無意識に起こることで、
有効に作用しない勘違い入力である可能性が高い。

「他のどこか」がドコになるか、それは人により様々で沢山の可能性がある。
でも、
ドウスレバヨイカを知ってれば、掛けるべき箇所は少ない。
知らねばソコに掛けられない。

たまたま正解となる人も居るが、確率的に勘違いとなるほうが多い。
とはいえ、勘違いで入力しやすい箇所は
「多くの人がソコに入れちゃいやすい」
って傾向はある。

なので傍から「抜け」という人は
「ソコの力を抜け」と言いやすいわけ。

ところが本人は入れてるつもりは無いから、なかなか抜けない。
言われて「ソコに入ってるな」とは判る、
だから脱力にトライすると、なにかしら効果も感じられる。

でも「なぜ」そこに入力してしまっていたか、
は解ってないから、よほど意識し続けないとまたすぐ入ってしまう。

で、実は、
「抜け」という立場の人は既に、作用点への連続領域での充分な筋力を備えてるので、他箇所での余計な入力をしないで済むようになってます。
だから自分と比べて「そこに無駄な力が」と指摘するわけ。

ついつい入力してしまう人ってのは、充分な筋力が欠けてるから抜けと言われても「補うために」結局またどこかしらで余計な入力をする、と考えられます。

なので、
・充分な筋力が備わるまでに時間はかかるので解決を急がない
・本来必要な筋力の成長を促すような「補う筋力」の入力箇所を「知る」
・充分な筋力があったとしても知っていればより効率よく動けるような補いの入力箇所を「知る」

…という発想が無駄のない解決への道筋だと思います。

必要充分がドレダケなのかを知ること

「必要充分とはドレダケか」を「知る」
のも余計な出力をせずに済む道かと。

鉛筆で文字を書く時、ギュ~~~と握りしめずとも書けるはずなのに、
しばらく書いてると握力と指への鉛筆の食い込みで疲れちゃう、ってありますよね。

鉛粉を紙に残すのに必要充分な力量を意識できれば疲れずにもっと沢山書けるのでしょう。

リード楽器なら「リードへの必要充分な圧力がどれだけか」を知るか否かで、目指す先のイメージも辿る過程も変わるでしょう。

そもそも、そのイメージがなければ目指して進みもしない。
なので、初心者がついそうししてしまうように、ガムシャラに顎の力で噛み締め続けてしまうもの。

・必要充分はドコにドレダケなのか、
・本来どこが筋力を備えるべき箇所なのか、
・その成長を促すには、どんな他箇所に入力するのがよいのか、
・備わったとして、さらに入れておくべき他箇所はどこなのか。

考える、とか、知る、ってことが大切なんでしょな。

指クシャ

上の写真ね。
筆者はこの状態を指クシャと呼んでます。
運指結果を不明瞭にするので避けられるとよいのでしょう。

キーを押す際には、
充分に押し込んでから一瞬あとまで「余計な」入力とコントロールが要るようです。
離す際には、
「このタイミングで離す!」と思ったよりも後に離れることになります。
つまり、いずれもリズムの不明瞭となるわけ。

なので指クシャは
解消するか、リズムのズレを折り込んで巧く付き合うか、
なのでしょう。

 ※ もし、離した時も「この形」を維持してる人ならそれは指クシャではない。そういう指の形の個性。タイミングに影響も無いでしょう ※

解消したいなら原因を知るべきかと。
主に2つに大別されるでしょう。
・クシャらずに指の「掴む形」を維持する握力の足りなさ
・↑の筋量に関わらず、キーを押し切ってから更に押す力の出し過ぎ

どれだけの筋出力と「維持」で、キーを「押し続けられるか」を知ることが第1ですね。
もし、
それに必要な筋力が足りないとすれば握力(指を掴む形にし続けるに足る)を鍛えるのが要るでしょう。
それが足りてるとすれば、なぜそれを越えて出力してしまうかを分析すべき。

掴む力(主に指の根本=第3関節に関わる)が充分でも「掴む形」を保つ筋力(第1&2関節に関わる)が足りなければそこを鍛えねばですね。
更に、それらは充分に思えるのにクシャる場合は、それらの働きを「実は」補うべき他の箇所の足りなさを疑ってよいと思います。

そういった深さで考えて初めて改善は進むのでしょうが、それ以上に大切なのは、
「こんな結果にしたい」
というビジョンだと思います。

人間の心と身体は思いのほかうまくできてて、
ビジョン次第で微妙な調整の可能性は拡がるようですから。

ボイトレとか声楽とかで足腰を…

学生の頃、声楽の先生に言われた
「グランドピアノを持ち上げながら歌いなさい」

ボイトレとかでよく耳にしそうなこと
「膝をガッツリ曲げて歌ってごらん」
後者はね、
体重を足腰で支えてその上に上体を乗せることで、
上体の諸筋を、体重と身体の位置を支える仕事から開放し、
歌うための呼吸作業に割り振りやすくできる、
ってことなのでしょう。

前者は更に、
本来、出力したい箇所の操作、その出力と操作の精妙を助けてくれるような「他の箇所」の入力を意識しやすい、ってことなのでしょう。

逆に、ソコこそ本来「力を掛けるべき箇所」と思うことで、単純に必要と思われる箇所の仕事を無意識的作業に変えてくれる、のかもしれません。

そんな風に具体的に「こうしてみるとね」という話で導けるのは、行動と改善の感覚が繋がりやすくて佳い指導なのだと思います。
闇雲に「ちから抜け」と言う実りの無さとは大違いですね。

ジャイアンは音痴じゃない

似て非なる話。
ジャイアンは音痴じゃありません。

本人は自分の歌唱状態に問題を感じずに音楽と仲良くしてます。
その限りに於いては音痴と称される問題は起きてませんから。
彼と音楽は充分に幸せな関係を保ててます。

ところが友人達は客観的にそれを不快な音痴と称します。
音楽とは、なんて社会的で相対的な出来事なのでしょうね。

そう言われてもジャイアン自身は己の状態に問題を感じないかぎり、
やはり自分にとっては音痴ではありません。

ところがある日、その状態を変えたいと思ったとします。
誰かに言われたからであれ、自分で気付いたのであれ、
その時初めてジャイアンは音痴になるのでしょう。

 大人への階段を昇ってしまうとドラえもんの世界は成立しないのでしょうがw

状態への不満はストレスを生みます。
音痴の社会的問題は単に不快ですが、自身への問題ならストレスです。
ストレスは解消したいものですね。

つまり、己を音痴だと思える人は必ず向上心と共にあるものかと。

ところが、それまで無自覚に音痴だった人は、
なぜ音痴なのか、いかに「より音痴でなく」なれるのか、

を知らない。
音痴とはドウイウ状態のことなのか、ドウなれば音痴ではないのか、
も知らないから当然です。

まず、それらを知るのが、効率よくストレスを解消する道筋と思ってます。

先ず知ること、その点はチカラを抜く話と似てるのでついでに書いておきました。
その話の詳しい続きは↓
『なりましょハナウタ美人!_大人ソルフェシリーズ入門編』
 http://bit.ly/KT_hanautabijin

『大人が始めるソルフェージュ_大人ソルフェシリーズ2基礎技術編』
 http://bit.ly/KT_otona-solfege

 

追伸、、ボヤキっす

浅慮とか盲信による残念な指導を、
講師って立場の人なら日々省みねばって思うんです。

特に 「先生が先輩が言ってたから」 「教本に書いてあるから」ってのはね、
必ず自分(と生徒)の体験・実験・観察の々から見直さなきゃね。

「チカラ抜いてもらわなきゃ」 って思ったら、
 ・なぜ余分なチカラ入るのかな?
 ・なぜ抜いたらイイのかな?
 ・今すぐに必要かな?
 ・どうしたら抜けるかな?
…などなど考えて対処するのが教える立場の勤めだと思います。

単純な「灯台もと暗し」はね、
講師自身は力抜かなきゃっと考える必要など生まれない位に充分な筋力を持ってるってこと。
つまり「頑張ってチカラを出す」のが要らなくなってる。
静かに自然に充分な筋出力がそこに在るから、頑張って力を出さなくてよいわけ。

無い力は抜けない
有り余る力があるから余計な力も出せる。
初心者の頃は頑張って出力しなきゃ届かなかったはずなのにね、忘れてんだよ皆。

必要充分をゼロ点とすると、それを越える筋力を充分に持っていれば、
ゼロ点に達するのに「力を使ってる」ようには見えない。
筋力が足りなければ「一生懸命に力を出して」到達しようとしてるように見える。
更に、それでも筋力が足りなければ他の箇所の筋肉の力を借りようとする。
それが時として本来の目的を阻害しそうな場合「力を抜け」って傍からの声に繋がる。

直接に必要な力がまだ足りないから別の箇所で補ってる、それが将来の成長を邪魔しそうな箇所なら「コッチに換えてごらん」って言えばいいだけ。
もちろん、そう言えるには身体の知識は勉強しとかなきゃいけないけどね。
筆者も果てしなく勉強を続けてるとこです。

充分な筋力がついてても、より効率良く長時間続けるには必ず別箇所のガンバリの助けを借りてるはず。

すでに上達した人からは余分と思える力も、 筋力と操作力の未熟な人にとっては現状を支える不可欠な力って可能性が高い。
そんな身体の仕組も識っておくとさ、単純に「抜け」とは言えないのだわよ。

筋力成長度合と上達段階に応じて言うべき言葉は変わりますよね。
初心者に対しての「抜け!」は無茶ぶり且つ妙な癖に繋がりやすくもあり要注意ですね。

そんなこんなもあって僕はいつも新種楽器への挑戦を続けてます。
初心者気分を忘れずに居られますからね✌️

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