天災と戦災は別モノだよな〜

きょうは音楽と関係無い雑記。
戦災はすべて人災だわな、
と、諦めたらオシマイだわな、な件。

天災に加害者は無いけど、戦災には必ず加害者は居て、それは前線の兵士ではなく戦を起こした誰かなんだろなってな夏の感想文です。

天災は誰かが起こせるものでも止められるものでもない。

戦災は、戦を起こす誰かが居るから起こるもので、止められるはずなのに何故か止められないのが繰り返されてる。

天災で怪我したり命を落としたり財産や自由をなくしたりしても、誰かを責められるものではない。
もちろん、こうしておけばああしておけばってことは見つかるだろうし、事後の対策に於いて人災も起きうるでしょう。
とはいえ、天災が起きたことそれ自体は誰かの仕業ではない。
だからこそ、困ってる人が居ればなにか手伝えないかって思う気持ちにも悩みはない。

戦は必ず誰かが起こすもので、それが無ければ空襲や侵攻による市居の民への戦争加害は起きない。
初動は必ず誰かなわけで、仕掛けられた方もさすがに黙って滅亡するわけには行かぬなら応戦せざるを得ない。
でも、誰かの初動がなければ応戦も起こりえない。
もちろん「誰か」の陰に見えない誰か(達)の思惑があったりもするのでしょうが、いずれにせ「誰か」ではあるわな。

戦を起こす者はおしなべて卑劣だな。
彼等自身が戦地で血を流すことは大抵無い。
ある欲を満たすために市居の民を戦に向かわせ殺し合わせる。
戦闘に参加する意志も自覚もない民を殺させる。

で、
「なにさせてくれたんだ」って文句言われたら
「お前らが行きたいっていうから行ったんだろ」
って責任逃れ。
勿論「行きたくない」が通るはずもない暴力的強制の多さが実際だが、少なからずその論法を通すような下ごしらえもまた巧妙で卑劣。

ちなみに、
彼等が「お前ら」を1人1人の人格あるヒトとして捉えてないのも常、欲を満たす道具でしかないわけで。

なにが巧妙ってさ、
宗教的信仰対称(以後 A)や社会的崇拝対象(B)を懐柔あるいは脅迫で手の内とし、「AやBの御意志だから」と言えば民を動かすのは簡単。
洗脳の手間を省けるわけで便利。
信仰や崇拝にプラスアルファするだけで済むから。
この島で言えば、古代には八百万の神々と民の関係は大和朝廷以降とは違ったんだろうな。
さまざまなAやBが支配層にずっと翻弄されてきたようで。

で、戦後に民からナニシテクレタンダって文句出れば
「AやBの御意志だったんだから、それにお前ら文句言えるのか」
って言うわけね。
まことに巧妙というか、それが通る世の中は稚拙だったり、相変わらず暴力と脅迫に動かされ続けてるってことかね。

たとえば空襲の被害者が「誰か」つまり国に補償「というか謝罪」を求めても、
 ・…の御意志でしたから
 ・一大事には誰もが耐え忍ぶべきことだった
を繰り返してきてるようで。
つまり国が「誰か」の主体であるか否かには触れない。

その交渉相手を国にするのに破綻は無いかと。
あのときの「誰か」側の者達、その後継者達が政権を握り続けてるわけで。

せめて正直に、いや嘘でも、
 ・市民への戦争被害をすべて補償すれば国家財政が破綻するから
と言うなら可愛いものだが、
自身が「誰か」であるのを認めない或いは曖昧にし続けるからこそ続く既得権益もあるのだろな。

そういったアンフェアの放置を続けてること、それが、
世の中の耐えぬ悩み事、イジメ・差別・迫害・誹謗中傷も…
それらの根なのかな、、
何世代も大人は子供の手本になりきれてないんだろね。

殺したいから、
殺されたいから、
それらが一致したからでない殺人
1人1人が誰であるかを問わぬ大量殺戮
それらを誰かに強いられる世の中、
それを続けることで欲を満たす者も居続ける世の中、、

戦が起こり続けるのを、その時々の人は止められない、
それが人の世ってものかもしれません。
が、それに抗うのを諦めたらオシマイと思える人が居続けるのも人の世。
どっちかと言えば、まだまだ諦めない甲斐はあると思うな。
命ある限り、手榴弾でなく花束を手に世を渡りたいものです。

で、勿論、天災の折にはなにかしら力を尽くしたいし、
己が渦中にあるなら、大声で世界中に助けを求めようと思ってます。
人類は戦なんてしてる閑も余力もないはずだよね~(^_^;

*****

曾祖父は砲弾の飛び方計算法を作った軍属物理学者、
祖父は日中戦線にて馬上で蜂の巣、
その親戚は風船爆弾の現場に、、
もっと近い親族はヒロシマに、、

すくなからず他人事とは思えないわけで、
きょう目にした報道から感じたことを書き留めておきました。

2024年8月15日

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