自然「的」短音階って僕は言わない

天然温泉を天然的温泉って呼びませんよね。

たとえば語尾をなんでも「~で」で済ますような最近のコンビニ店員用語のような気味悪さを感じるから、自然的短音階とは呼びません。

そう感じるから僕は使わないというだけで、誰に強いるという意図はない。
そんな、言葉にまつわる愚痴です。

コンビニ店頭にて、
私「タバコの155番を」
店員「キャメルの6ミリで」
「え?」
「お支払いは?」
「クレジットカードのタッチで」
「クレジットで」
…数十秒
「領収書で」
「え?」
「あたためますか?」
「え?」
「電子レンジで」
「きょうはやめときます」

そこで店員に食ってかかったりはしない。
彼には当然で、気にかけるようなことではないから、言ったところでなにも響きはしないし、僕はタバコを買えればよいわけで。

とはいえ心の中では思うのだ。
「僕はタバコやクレカを用いてナニをするのだ?キミに殴りかかるのか?、で、キミは領収書で反撃でもするのか?」
あ、「電子レンジで」は「○○を用いて」だから気味悪くない。
が、タバコは温めなくてよい。
「クレジットで」も決してオカシクはないが店員が客に言うに相応しい言い回しとは思えない。

ついでに言っちゃうと、
代金を現金でピッタリ渡したのに
「532円からお預かりします」
ってことはなにかい?お釣が帰ってくるのかい?
「領収書のお返しです」
返すのはお釣で領収書は「お渡し」じゃん?
つまり、哲学なき慣用的言い回しへの無自覚な溺れ。

「○○します」で足りるのに「○○していきます」
ってのも最近よく耳にする Youtuber 的言いまわし。
「こちらが○○です」を「こちらが○○になります」
とかも、無意味な慣用的蛇足なことが多い。

「叫べます」でいいのに「絶叫することができます」とかも思考停止的冗長。
きっかけは「ラ抜き言葉へのソシリ」から逃れたいTV出演者の集団的無自覚な発想なんじゃないかな?
ま、「食べられない」と聞いて「可能・受身」どちらなのかを文脈から推し量れない若者が増えたってことで「わざとラ抜き言葉を使って」可能の意味合いを明示するって「暗黙の前向きな言葉の変遷」は感じるけどね。それが「食べれない」って言い方。
あ、ATOK エライな、ラ抜き言葉を書くと指摘してくれる(笑。

Screenshot

「イッピン」と聞いて、文脈から「逸品」なのか「一品」なのか判らない者とのトラブルを避けたいからと思われる「ヒトシナ」ってTV用語の流布も気味悪い。

いや、重ねて言うが、、僕は使わないってだけよ。

🌸

さて「自然的短音階」
以前も書いたかもしれぬが、相変わらず目にするたびに気味悪く思うんでついつい💦

旋律的短音階、和声的短音階と「語呂を合わせたい」んだろか? あるいは単になにも考えてないんだろか?

1)「モノや事象への単なる名付け」それがナニか。
2)「ある状態への名付け」それだドウあるか。

どちらも名刺(体言)。
後者だと、形容詞(用言)のように、後続する名詞に直接接続できることが多い。その場合、助詞とか「的」とかを介さずに「○○であるような△△」と理解しうる。

一見そうは見えぬ「東京放送」も「東京に在る放送局」つまり状態を示す。
「ごまたまご」だって「ゴマまみれの卵(のようなもの)」で同様。

一見してそう見える言葉「自然」。状態を示すのは明らか。
だから「自然的現象」とは言わず「自然現象」。

「赤とうがらし」は「赤い唐辛子」とも言えるが意味合いは少し変わる。
「あおだいしょう」は「青い大将」だと少しどころではない。

前者だと直接接続するとギクシャクする。で、「的」を挟んだり「○○っぽい△△」って言い回しになる。

 

ところで、‘90年代後半、台湾に行ったことがある。
ニッポンぽいものがトレンドだったようで。
店の看板に日本語らしき言葉を使うのが流行ってた。
「日的蕎麦」みたいなのをよく見た。
「日本蕎麦」ではなく、どうしても「的」を挟んでしまう中国語的センスなのだろう。

その手の「○○的」の類は、TikTok に溢れる奇妙な誤読誤訳だらけの自動翻訳結果の影響が若者達には濃いのかもね。中国語の人になら奇妙に思えなさそうってのも特徴。
いやぁタニンゴト(他人事と書いて本当はヒトゴトと読む)とは思えません、
まぁミミザワリの良い(耳障りと書いて、耳に不愉快の意、←の文脈なら耳当たりが正解)言葉が私的(笑…)にはジュウフク(重複と書いてチョウフク)、、、もういい(笑笑。

 

閑話休題…
旋律も和声も↑の前者。
体言の主人公たる名詞、たとえば「短音階」が後続し「○○っぽい」を表したい時には「的」を挟んで、
旋律的短音階、和声的短音階
となる。

でも、後者である「自然」は「的」を挟まずに自然短音階と言ってよいはず。「自然現象」と同じく。

もちろん、状態を示す名詞でも主たる体言に直結できないものもある。
単語ごとに慣用的に使い分けがなされてるわけ。
その点は、時と共に言葉が移ろいうる不確かな要素を孕むのでしょう。

さて、
もとよりそれら音楽用語は西欧語を訳したものなわけで、その原典に触れればより明確になったりもする。

旋律的短音階は melodic minor であり melody minor ではない。
和声的短音階は harmonic minor で、harmony minor ではない。
で、
natural minor の natural は形容詞だから直訳すれば「自然な短音階」だが、明治以降の言葉遣いでは「自然短音階」と言えるのは先述のとおり。
ちなみに、
melodic は melody という名詞を形容詞化した形。
harmonic と harmony も同様。形容詞化するのために「ナニカを足した」わけね。そこを日本語化する際に「的」ってのを充てるって明治時代の日本人は見つけたわけですな。
natural は元々形容詞。

なわけで、無自覚にあるいは語呂合わせのみで自然的短音階と言ってしまうのを、僕はしないようにしてます。
もちろんその言い回しが猛烈に好きと強烈に自覚するなら止めはしません。

はい!愚痴おしまいっ♪

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