「使用することができる」は「使える」
「食べることができる」は「食べられる」あるいは相手や場面によって、わざとラ抜き言葉にして「食べれる」。
「doing することができる」とか「do ことができる」
って言い回しを自分では使わないようにしてる。
でも、誰かが使っても目クジラ立てないし制止もしない。
自分の文字数減らしたいだけなので。
とはいえテレビや新聞などでの濫用に触れると、貴重な時間や誌面の無駄遣いだな、とは思う。
それと、
ラ抜き言葉の「前向きな使い分け」との連関を考察してみる。
「ラ抜き言葉」にも使い途
ラ抜き言葉に目くじらを立てるのが前世紀末からしばらく流行った。
現在ではむしろ、ある種の働きを期待して能動的に使う者も増えてると筆者は感じてます。
「~れる、~られる」
未然形動詞に後続する助動詞。動詞(下一段活用)型として活用する。
前にある動詞の活用形態に応じて「れる or られる」が使い分けられる。
(古文では「~る、~らる」ラ行変格活用)
動詞に付加する意味は「受け身・可能・自発・尊敬」。
いずれの意味合いなのかは文脈から見分けるって仕組み。
その読み分け能力が世の中全体で落ちてるのが一因と思われる現象がある。
「られる」を使うべきところで、
「これは受身ではなく可能の意味ですよ~!」
って意図をもって、わざと「れる」を使う者が増えてるんじゃないかな?
メディアでの濫用はまだどうかと思うが、日常口語でのスムーズな相互理解の為には前向きな用法として許容してよいと感じてます。
とはいえそれは苦肉の策なわけで、過去の文化を識り尊重できてこそ、未来もよりよく展望できると思います。
識って「食べれる」と言うのと、識らずして同じく言うのとでは、
伝わる印象は随分と変わる、、と識る者は思うが、識らぬ者にはどうでもよいのでしょう。
識らずして、水が低きに流れるごとく変質していくのは、諦めの積み重ねなようで快くはない。
その変化は退化とまでは言わぬが進化ではない。
温故知新、昔の人は巧く言ったものだな。
「ことができる」文字数無駄の残念
「do ことができる」
本来は強調のための構文。
「do こと」で動詞(用言)を名詞節(体言節)化して、
その動作の映像的輪郭を明瞭にしつつ
「が」を使うので押し出し強いキコエとなる。
ってことなのだと理解してます。
強調するぞ!って意図が無いのに使うのは表現者としては快くない。
けど、誰かが気にせず使うのに触れても目くじらは立てません。
たとえば、
「すごい綺麗な花!」
とか耳にしても「はいはい、とても美しいですね~」と返せます。
あくまでも使う自分の気持ちよさだけですんで。
と、もう1つの用法。
英語の「be able to do」の直訳としての使い方。
大正~昭和初期の文学で既に見受けられる。
それ以前の文献には触れてないのでよく知らない。
You can eat. は「食べられる」or「食べれる」
You are able to eat. は「食べることができる」
後者であれ「食べられる」とするのが「日本語への翻訳」と理解してるが、十歩譲って「あぁ直訳なのね」とも思える。
が、前者でも「…ことができる」って書かれる例があまりに多いのには辟易。
漢語の文字数削減効果など功罪
漢語を使うと文字数を減らせる場合は多い。
が、雰囲気が堅くなったり、文意が伝わりにくくなることも多い。
ただ文字数が減れば良いわけでもない。
明治時代に多く作られた(外来語対応の必要から)新漢語も含め、漢語を使うと冗長を避けられる場合も多い。
動作を示す名詞には直後に「する」を後続させて動詞(用言節)化できる。do something ってこと。
「できる」を後続させれば can do になる。
「食べる」って動詞(do)を名詞化(doing)した漢語が「食事」なので、
「食べる」は「食事する」…1文字増えた(^_^;
「食べることができる」は「食事できる」4文字減らせた(^^)v
助動詞を使えば「食べられる」で同じ文字数ですが。
ま、動詞→名詞 & 名詞→動詞って調子に変換を重ねるのこそ無駄に思えますけどね。
漢語と助詞「てにをは」を組み合わせる効用
「食事をできる」にすれば1文字増える。
「食事ができる」なら「強調・明示」、
「食事はできる」なら「限定」、「食事もできる」なら「並立」ですね。
それらの意味合い表示は、助動詞レルラレルの使い分けだけでは実現せず、和語に拘るなら余計に文字数が増えます。
その点では漢語を使うのに利があるわけです。
それらいわゆる「てにをは」つまり助詞「はがにをのもとで」は「do することができる」構文でも使え、
「食事することが出来る」「食事することを出来る」「食事することに出来る」「食事することは出来る」「食事することも出来る」「食事することで出来る」
それぞれ意味合いを付け足せます。
ですが「することができる」が慣用句化した感染力は飛び抜けてますな。
ちなみに「消しゴムする」みたいなのは、
動作を示すのでない名詞を無理矢理に動詞(用言節)化した例。
珍妙だがカワイさとして受け止められる意図的用法ですね。
未来にはそれを珍妙に感じなくなる可能性は濃い。
水は低きに…というか観察の面白い観点かと。
「てにをは」の謎
「てにをは」についての説明を見渡してみると、起源やら現代文での使い分けの大切さとか書いてある、どこでも。
でね、謎なのはね、
「をには」は現代文で普通に使うけど
「て」ってどれのことだろう?
その点の説明はなかなか見かけない。
現代文での「で」のことなのか、
古文での「動詞未然形+て」の「て」なのか。
その点、要勉強。
似たようなマトメ方で「ガノニヲト」ってのも聞き覚えがある。
なぜその5文字にしたのか、、、それも謎。
どうせ並べるなら例えば「はがにをのもとで」でいいじゃん、て思うんですけどね。
自分もその点まだ要勉強ではありますが。
「do(未然形)ないです」が照れくさい
漢語は時に便利だが、例えば
「食事しないです」
みたいな幼児言葉的に聞こえる場合もあり要注意かと。
もちろん和語でも
「食べないです」
で同様なので、むしろそれは漢語の問題でなく「…ないです」構文ゆえなのでしょう。
動詞の行動をシンプルに否定する「do(未然形)+ない」
たとえば「食べない」。
動詞の名詞化+「動作を表す名詞+する」構文からだと「食事しない」。
それらを無理矢理に丁寧語にした結果が「do+ないです」「doingする+ない+です」。
本来の丁寧表現なら
「食べません」「食事しません」
ですから。
そこが気になるのは
「食事することができる」って漢語+英語直訳風ではなく
「食べられる」と和語に拘るのと地続きな気持です。
「…することができる」…に漢語を置く気味悪さ
巡りめぐって
「動詞を名詞化したのをまた動詞化して、更にまたそれを…」
ってのもよく見かける。
(上で軽く触れたけど強いてまた書く)
漢語「食事」は「食べる」という動作を示す名詞。
「する」を後続させると動詞節(用言節)化する。
そこに「こと」を後続させると名詞(体言節)化する。
動作を示す名詞 something
(動作)する do something
(動作)すること to do something
つまり、
「食事すること」to do eating
「食事することができる」can do eating
は無駄を重ねてるわけね。
食事=eating、食べられる= can eat で済むわけで。
冒頭の
「使用することができる」→「使える」
はその例だったわけ。
「ラ抜き」と「ことができる」の連関
前世紀末以来の「ラ抜き言葉への目クジラ立て」の流行が、メディアでの「ことができる」の濫用に拍車をかけたように思います。
テレビで喋る者、テロップを書く者、、
「ラ抜き警察」への予防線として
可能を示すために「れる・られる」って和語を使わず、
「することができる」
を乱発するようになったのではないかな?
ちなみに同様の拍車は「ヒトシナ」とか「シタツヅミ」とかもかと。
その点はまた詳しく書くつもり。
つまり、水は低きに流れたわけね。
「れる・られる」について識るって努力を放棄した結果なわけで。
目の前で今、テレビのアナウンサーが
「3点差を縮めることができません」って言った。
ま、もはや普通よね。
「3点差を縮められません」
こそ耳にしない表現になった現代なわけね。
そのうち
「3点差を縮小することができません」
とも言いかねない(笑、、ふぅっ。
ま、なんでもいいっすよ(^_^;
低きに流れるなら流れるがいいさ~
って思ってます。
文化の変遷の「おおかた」はそういうものでしょうから。
その大方に抗う者は少数で当然で、それでこそ世に少数者の居心地もありうるわけで。
筆者は文字数減らしたいだけですから~♪
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