気の持ちかた1つでイライラせず快適で居ようぜってメモ書き。
Youtube とかで若い人が「数秒解決!これさえやれば!」とか「やってはいけない○○」「皆が信じてた△△は大間違い」とか言ってるの見かけても、いちいち目くじら立たない筆者が書きます。
誰にとってもどんな状況にとっても絶対的に正しいことや間違いなぞ無い。こと音楽などに関しては。地球はまだまだ大きいし人の歴史は長い。知らない事、知り得ない事ばかり多いはず。
なので、真理(らしきこと)の多様性をより数学的に見極め、自分の必要にとってベターな「今の答」を見いだすのが佳きかと。
広大な音楽の世界に対峙する我々は、何処まで行っても常に探求者であり学徒でしかない。
黒白な物言いについて
「これが正解です」って黒白はっきりな断言は大抵、狭い視点その中でって条件に限っては正解と言えるものなのでしょう。
地球上の色んな姿の音楽に触れて(演奏せねばならぬ立場に立つ、或いは耳にするだけでも)きて、例えばクラシカルな楽典とか、よく見かける範囲のジャズ理論といった視界から見れば例外的出来事のほうが遙かに多い。
なので、
黒白語調であれ「○○という条件に於いての話ですが」といった設定ありきの話なら聴き耳を立てようかな?って思えます。
もし音楽の世界に正誤を明瞭に測れる分野があるとするなら、
・音波の様子(その大小や倍音構成や和声による現象など)や、
・時系列上に発生する出来事(いわゆるリズムやグルーヴ)など、
数理的に測定可能な事象とその測定結果でしょう。
それらを起因として発生する音楽的出来事は全て人の心理作用の説明となるわけで、
主観・環境・必要などによりその正誤には多様性が生まれるはずのこと。
美しい・素晴らしい・憧れちゃう・目指したくなる…なんてことは人の数だけ様々だし、ある一人についても出会い次第で時に連れ変化して当然のこと。
数理的に測れる事象と、その結果もたらされる心理的事象とを、切り分けて捉える。
その心持ちが、理論や教則にまつわる諸々と心穏やかに付き合う入口と筆者は思ってます。
ちなみに、
時系列上の事象については望遠鏡的視点。
音波についての諸々は顕微鏡で見える世界。
と捉えれば、実はその2つは切れ目無く連続的な概念で、測る時につかうモノサシのサイズが違うだけ。双方の分析や音楽的結果に向けての工夫は、互いに応用の利くもの。とも筆者は思ってます。
__閑話休題__
なわけで、、
「○○は絶対に□□でなければならない」とか
「△△は絶対に🌸🌸であってはならない」といった、白黒断定型の物言いは、多角的視点に基づくならば少なからず眉唾を含むものと言ってよいでしょう。
もちろん物理的測定結果の数理的説明、
「○○ってのは□□なのですな」
という観察結果報告についてはまた別。
データを信じられる限りそれは真実なのでしょう。
そこが上述の「切り分けて」ってこと。
では、何故?
白黒な物言いは起こるのでしょうか?
センセーショナルでYouTubeの視聴率を上げやすいから。
特に既存のアタリマエを全否定するようなタイトルは注目されやすく、しかも扇情的で冷静を失わせるので言説を信じ込ませやすい。
、、、それはどうでもいい(笑
たぶんね、
学徒としての初々しさの表れなのかと。
発見や理解の喜びを吐露する雄叫びのようなもんで
「よし!コレだ!これこそ真実なのだ!コレこそが唯一の答なのだ!」
って言いたくなるのでしょうね。
その人にとっては、その時点では確かに偉大な真実なのですよね。
そう思えるのはキラキラと貴重なことです。
その先のより深い未来へ進むマイルストーンの1つでしょうから。
いや、皮肉じゃないっすよ💦
コロンブスが新大陸に着いたとき原住民をインド人と思い込んだのと同じ。
(もちろん自分にも思い当たるフシがあるのでそう言えるわけですけどね)
ま、あとね、もっと稚拙なことだろけど、、
想像力とか探究心とかに根気が無いと、浅薄なとこで黒白言ってもらったほうが気持佳く納得しちゃう、、って向きはあるよね、、それだと文化は思考停止の餌食になって廃れてくんだろけどね💦
学ぶほど探るほどに世界と歴史の深さに触れ、
先人達1人々々の発明や発見の偉大さに気付きます。
その都度、知らないこと、まだ解ってないことこそ膨大で、自分の理解なぞほんの切れっ端でしかないと感じます。
そこに至ってようやく、黒白な断言なぞできるものでない、ってなるもんです。
学びを深めるほどに断言なぞできなくなるもんです。
それでも、ある種の「答」を述べねばならぬ場合には、
「○○という必要に於いては」といった条件設定を先ず述べるのを覚えるのでしょうな。
カエルは井戸の中に居ても空の高さは感じ得る。
だから諦めない甲斐はあると思うんです。
楽器教則と音楽理論書について。
その人の「ある時点での確信」を書き留めたに過ぎない。
著者自身も学びを深めるにつれ、その確信は変化しうるもの。
なので、ある時点・ある視点という条件下での確信でしかない。
つまり、その範疇を超える可能性は無限に広がってる、そのほんの断片でしかない。
とはいえ、その断片だけでも触れることは無意味ではない。
触れることで自分の視点は確実に広がるし、自分の望遠鏡 and/or 顕微鏡の視界を広げる材料となってくれる。
クラシック音楽の世界での楽典。
日本ではいわゆる「黄色い表紙の楽典」が長らく支配的な1冊だったが、もちろん沢山の書物がある。
多くは、過去数百年に語られてきた事々のコピペというかマトメ。
それらはゲルマンorラテン西欧の貴族社会とキリスト教会を中心に育ったクラシック音楽って範疇に於いては「こういうことになってるわけですよ」って「結果的ルール」を纏めたもので、それは「ほぼ間違いなく、うまく説明されてる」と認められてきた事々。
なので、尊重に足る内容ではある。
しかし地球は広いわけで、その楽典のみで説明できないことのほうが多い。
音階や和声については勿論だが、記譜法ですら世界中の譜面を見ると様々なわけで。
ついでに。
クラシックって言葉は邦訳すると「古い」ってことではない。
「階級的」つまり貴族のってこと。
筆者はそれに気付いた途端、色んなモヤモヤが晴れました、なるほどねって感じ。
地域と時代を共有してても、どうやら違う理屈の音楽はあったわけだし、それらが影響しあってきた歴史に触れるのも面白い。
教則本や理論書を書く作者も、様々な音楽との出会い次第で、書きたい内容が変化してくのは当然。
なので「この本を書いた時点では、作者はこの程度だったんだね~」と思って付き合うのがよいでしょう。
で、大切なこと!
深淵なる意図を含んだ素晴らしい教則本であれ、読者の理解力次第では無意味になる。
そんなことも当然起こると思ったほうがよいでしょう。
筆者自身、若い頃に「クソ本」と思った数々に今改めて触れて「すげ~!」と思うこと多し。
とはいえ、解らないことは仕方がない。
手に取って「面白そう」と思ったものからトライを深めてくのが精神衛生上よろしいのでしょう。
で、より大切になってくるのが、楽器も理論も生身の先生に習うこと。
先生ってのは「クソ本→すげ~!」を少なからず体験してる「はず」。
なのでそういう人に習えば、早い段階から「すげ~!」との出会いを逃さずに済むわけ。
もちろん教える側は、若い人がそのスゴさを解るような説明に腐心せねばならないわけです。
師の言葉は「生徒の上達段階に応じて変わる」
先生ももちろん日々進化してるはずです。
なので「その時点での境地を素に」アイディアを言葉にしてるわけ。
その点、対応の心がけは書籍と同じ。
書籍と違う点、ここ大事!!
生徒の上達段階と状態に応じて、目標は同じでも、違った説明を選びます。
例えばサックスのアンブシュアと音造りなどについて…、
初心者でヒックリ返っちゃって低音が鳴らせないなら、なるたけ噛まず口腔を上下に拡げるよう仕向ける言葉を選び、とにかく低音が鳴るのを体験させる。
逆に高音域を鳴らせない場合、慌てずに低音域を出せるのを活かして練習を進めさせ、「いつか出るさ、筋力向上と共に。あ、噛むのはよしてね」と言う。半月後には、口腔内容積の調節と呼気圧とのバランスで高音域が簡単に出るのを体験させる。
上級者であれば、低音域こそ狭めの口腔内容積で鳴らし、ピッチ操作と音色・響きをタイトに纏める工夫を。高音域ではむしろ口腔の奥つまり舌根あたりからその奥を拡げて、音色・響きの工夫を勧める。
相手の状態次第で、近い将来の改善(生徒一人々々に違う目標、それぞれへの近道となるような)に向けて選ぶ言葉は変わるわけです。
ちなみに筆者の教室では、全くの初心者が来れば殆どの場合 20分後には2オクターブは出せて、簡単なメロディー吹奏を愉しめるようになります。
もちろん、その先に「あぁしたい、こぉしたい」が出てくれば、すぐにトライさせ「やっぱ難しいっすね」と言わせ「じゃあこんなことから積み上げて、やがて実現を目指そう」ってなるわけ。
ある程度吹いてきたけど問題を抱えてる人が来ると、全くの初心者より必ず少し面倒くさい。
ついてしまった芳しくないクセを自覚させ、それを如何にリセットするか、から始めるわけで。
ま、それも大抵の場合に効果の出る方法ってのは幾つも揃えてますけどね。
というわけで、生身のレッスンの場合、生徒さんの状態次第で、同じような目標だとしても生成の言う言葉は変わるのが当然と思うべしです。
で、ここ大切!!
自分は一生懸命練習してきたし、そこそこ変化も自覚してる、なのに、先生は前回と同じことばかり言う。
そんな時に有り得る可能性は…
1)先生が自分の変化に気付いてくれてない
2)変化に気付いてたとしても、それに応じた新たな目標設定を先生が思いついてくれてない
3)自覚とは裏腹に実は殆ど変わってない
3かも?って思えたら訊いてみること「前回と変わってませんか?」。で、「まだまだじゃ」って言われたなら懲りずに修練に励むべし。
もちろん、提案された修練が的外れなことも有り得る。
ある目標に向けて、ある方法が効果薄かった場合、他の修練の可能性を複数提示できる先生こそ選ぶべし、です。
1か2かも?って思える時。
コピペ先生とかマニュアル先生な可能性が高いかも。
巷の教本とか、その人が誰かに習った通りのことしか言えない。
あの教本に書いてあるから、とか、権威あるあの人が言うから、ってことが
「その生徒にとって」本当に価値あるかどうか、、
教本の筆者や権威あるあの人は今もそう思ってるか、、
いずれも甚だ不確かだろうことは、ここまで読んでくれた人ならお解りでしょう。
そんな可能性を感じたなら、
自分の体験に基づき、自分で工夫を重ねて、色んな種類の生徒に触れてきた、
そんな先生との新たな出会いを求めてもよいのかもしれません。
とはいえ、修練を積むのは自分です。
どんな先生であれ、キッカケとペースづくりの材料でしかありません。
学ぶ自分が学びと工夫を深められればよいわけ。
と言っちゃうと先生業の空しさを感じかねません(笑
が、そこで心がけるべきこと。
生徒が思いつきもしない「次の目標」を如何に提示し、それをタノシミにして修練を継続してもらえるか、
そこが教える側の使命の1つかと。
一番の先生は音楽自体
沢山の演奏を聴き、その中から学ぶべきことを聴き分け、とにかく真似してみる。
それが最も成長させてくれるプロセスです。
もちろん真似の仕方が解らなければ、その方法と、かかるであろう時間を師匠に尋ねるのがよいでしょう。
音楽理論についても「耳で聴き取ること」が一番です。
いわゆるジャズ理論書に書いてある事々も実際とは乖離してることが多いですし。
通称「黒本」などスタンダード曲集は多いですが、
その多くは過去のリフ帳(演奏家達の手書きの楽曲メモ帳)達からのコピペの蓄積。
素ネタの間違いがそのまま数十年後の新刊書籍まで引き継がれてること多し。
とにかく原典の「音」を聴き、自分の耳で出来事を聴き分ける。
それが最も間違いのない方法です。
ジャズの人達だと、原曲はメロディックマイナーなのに、なんでもかんでもハーモニックマイナーにしちゃったりしがちですしね。
原曲は Dm7 G9 Cm って進行なのに Dm7(b5) G7(b9) Cm にしちゃうってことね。
そのレベルのオモイコミと思考停止から起こる出来事が、理論書や曲集に散見されます。
チャーリーパーカーのコピー集として名高い「 Omni book 」でさえ、如何にもピアニストが採ったと解る間違いが沢山あるわけで。
R&B系だと C7(#9) って聞こえるのに、なんでもかんでも Cm7 って書いちゃうとか。
90年代以降のブリティッシュソウル系で頻出する、6度のメイジャーとかセブンスとかが鳴ってても、マイナーって書いちゃうとか。
もっとチョロいとこで言えば、セカンダリドミナントでも、ベース音だけ聞いて m7 って書いちゃうとか。
それらを信じ込んじゃうのは学習の落とし穴ですものね。
まぁそんなわけで
こんな気の持ちようで居れば、いちいちイライラもしないでしょなってメモ書きでした。
筆者自身も過去に書いたことや教えたこと、今思えば恥ずかしいことは多い。
けど、ま、こんな気持で居られればシャァナイナとも思えます。
あ、あんま恥ずかしいブログ記事や電子書籍はコッソリ消したりするかもです(笑

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